History

こんにちは、株式会社WeLLBeING 代表の米良と申します。

わたくし米良が、株式会社WeLLBeINGを立ち上げた理由、すなわち、「ありのままに自分らしく」そして「幸せに」はたらくことの大切さを痛感した原体験を紹介をさせて下さい。

改めまして自己紹介させていただきます。

略歴|米良克美(めらかつみ)
国立大学薬学部を卒業して薬剤師免許を取得。同大学院博士課程を首席で修了して博士(薬学)を取得。大学を離れた後は、内資系&外資系製薬会社で新薬の研究開発に取り組む傍らで、働きながらオーストラリアの大学にてMBAを取得。その後は、外資系コンサルティング会社で経営コンサルティングに従事した後に、現在は、人材開発会社に全力投球。

この略歴をご覧になっての皆さんの感想はいかがでしょうか?

これだけ見ると、人間味がない奴(何の苦労もないつまらない奴)と感じるかもしれません。1つ言わせて下さい。そんなことはございません!

自分で言うのもなんですが、少しばかりの苦労はしております。

はい、せっかくの機会ですので、ここでは自己開示120%、わたくし米良の歴史ダダ洩れ大公開したいと思います。お時間ない方は、無視して下さいませ。

もしお時間のある方は、長文になりますが、お付き合いいただけましたら幸いです。読んでいただければ、私が「ありのままに自分らしくはたらく」ことをテーマにした理由が少しは分かっていただけるかと思います。それでは以下、時系列に沿って語っていきます。

1. 胎児期(生まれる前)

おどろくなかれ、私の苦労の歴史は、生まれる前にまで遡ります。歴史のスタートは九州の宮崎のさらに片田舎でのことです。私の父は一級建築士の資格を持った腕の良い大工(だったらしい)、そして、母は専業主婦でした。

私には2つ上の姉がいますが、この姉が生まれた後くらいから、父と母はとても不仲だったらしいです。その原因は父の怠惰さ(仕事をサボりまくる癖)と酒癖の悪さだったと聞いています。それはもう不仲な状態で、もう離婚寸前の危機が何度もあったそうです。

そんな中において、偶然できた子供が、わたくし米良だったそうです。私の母は、もう父とは別れてしまおうと思っていたので、できた子供(←わたくし米良のこと)は堕胎しようと、ほぼ決心していたそうです。

堕胎のことを母の両親(←わたくし米良からすると祖父母)に実際に相談したそうです。その時の祖母の言葉が、結果として私を救ってくれました。

祖母「もう一人子供が生まれたら、人間(←わたくし米良の父のこと)も変わるかもしれない。それに、せっかく天からもらった命なのだから、この世に出してみてはどうかな」

と母をこんこんと説得してくれたそうです。最終的に、私の母はわたくし米良を産むことを決めたそうで、おかげさまで、無事にわたくし米良はいまココで人生を謳歌している次第でございます。

2. 生まれてから幼少期

一難去ってまた一難、わたくし米良、とても引きが強いのか、生まれた直後にも大きな危機がおとずれます。それは生まれてすぐに、厚生労働省の指定難病である「胆道閉鎖症」を発症したことです。

胆道閉鎖症
日本ではこれまで出生10,000人に1人の発生頻度といわれてきました。現在国内に少なくとも3,500名ほどの患者さんがいて,このうち1,500名程度が成人期に達しています。
出所:厚生労働省ホームページより抜粋

厚生労働省のホームページによると、この「胆道閉鎖症」は、希少な疾患で命を落とす患者も少なくはありません。わたくし米良もご多分に漏れずにしっかりと死にかけました。

ですが、宮崎県立宮崎病院の名医のおかげで、2回の大手術を経て、何とか命をつなぐことができました(わたくし米良の腹部には大きな十字の手術跡があります)。

手術は生まれて間もない1歳くらいの時だったで、記憶は曖昧ですが、手術後、麻酔から覚めた時に、ベット脇に置いてあったバナナが目に入り、そのバナナの色がとても鮮やかな黄色であったことを今でも覚えています。

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その後は手術の影響か、幼少期は体が弱く、よく強烈な腹痛や下痢を起こす子供でした。そんな中、結局ですが、私が3歳の時に父と母は離婚してしまい、姉と私は母に引き取られていきました。

おそらく想像に難くないと思いますが、宮崎の片田舎で、専業主婦で全くのビジネススキルを持っていない母が、仕事をしながら子供2人を抱えて生きていくのは、それはそれは厳しい状況でした。

しかしながら、私の母はとても気丈かつ頑固な人で、絶対に生活保護はもらわない!自分で子供を育てる!と決めておりました。この様な背景から、私の子供時代は、極貧かつ超絶キビシー時代であったのです。

3. 少年~青年期

私の子供時代を一言で言うと、貧乏です。それも極貧です。

例えて話すとしたら、日々食べるものにも困ることがあり、そんな時は2択でした。そこら辺の草を食べるか、万引きするか、です。正直にお話すると、私は後者を選んだこともあります。もう時効だとは思っておりますが、とてもとても反省していますし、罪悪感も持っています。この罪悪感が、何らかの形で世の中に貢献したいという、今の気持ちを形作る一つのものになっていると感じています。

少年~青年期の思い出は、働きまくったことです。生活の足しにするために、中学時代は3年間、雨の降る日も凍える日も毎日毎日、新聞配達のバイトをして稼いでいました。そして、高校時代はファミリーレストランのロイヤルホストの厨房に入って、週6シフトで働きまくって稼いでいました。

おかげで、高校卒業時には、大学進学費用180万円を貯めることができていました。そして、中学生1年生(13歳)から、社会に出て大人と働くということで、子どものころから割と大人びた考えをする子供でありました。

そんな、少年~青年期の私の興味としては、サイエンスど真ん中でした。生まれてすぐの病気と手術があったからか、小さいころから「命とは何か?」「生きるとは何か?」など根源的な問いについて思いをふける子供だった様に思います。

特に、アンパンマンのテーマソング

なにが君の幸せ。なにをして喜ぶ。
わからないまま終わる。そんなのは嫌だ。

を聞いて、わたくし米良は、この世に何のために生まれてきて、何を残すのか、をひたすら考えていて眠れない夜もありました。そして、自然にか、必然か、ライフサイエンス(生命科学)に興味を惹かれるようになっていったと思います。

中学生の中頃までは、医者になろうと思っていました。しかし、中学2年生の時にふと手にした科学雑誌(本の名前は忘れた)の中にこんな一説がありました。

医師が1日に20人の患者を診たとする。そして、その医師が年間300日間勤務を40年続けたとする。そうしたら、一生涯にその医師は24万人の患者を診る(救う)ことができるだろう。ただもし、あなたが研究者として革新的な薬を作ることができれば、1億人の人を救うことだって可能である。

はい、シビれました!この文章を読んで、私は薬の研究をすることを決めました。そして、熊本大学薬学部に進学して、実際に薬の研究に従事することになりました。

4. お仕事没頭期

おかげ様で、薬学部を卒業して薬剤師免許も無事に取りまして、そして大学院の博士課程まで進んで、自分のやりたい研究に没頭することができました。そして、これまで21本の論文書くことができて、大学を修了する時には学長賞(首席)をいただくことができました。

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そして、大学での研究経験を活かしつつ、研究のフィールドを製薬企業に移して仕事に邁進してきました。そして製薬企業で働きながら、オーストラリアのBOND大学にてMBAを取得しました。

働きながらMBAを取るのは、それはそれはタフな期間でしたが、学ぶものがとても大きかったです。MBA取得後は、外資系製薬企業、そして外資系のコンサルティングファームに転身し、一貫して新薬の研究開発に携わってきました。

5. バーンアウト期

幼少期は、苦労が絶えない期間が続きましたが、大学院を修了した後からは、おかげさまで仕事に没頭することができ、充実した生活を送っておりました。

ただし、この仕事に対するのめり込みが良くなかったのかなと、今から振り返ってみると思います。この仕事に没頭している時にかなり無理をしていたのだと思います。

はい、正直に言うと、この時は「周りの人間よりも成果を出さなきゃ!」「周りの人間よりも早く出世しなきゃ!」「周りの人間よりも年収を上げなきゃ!」という強い強迫観念があったように思います。

そして、まさに他者からの評価(他人軸)で生きており、自分自身の人生を生きていなかったように思います。その結果どうなったのか?

はい、バーンアウトしました。

その時のことを具体的に書くのは、今でもとても苦しいので、控えさせてもらいますが、心が苦しくなって全く仕事をできない時期が一定期間ありました。この時、妻と子供にはとても迷惑をかけました、また、支えてくれてとても感謝しています。妻と子供を愛しています。はい、私は愛妻家です。

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このバーンアウト期はしばらく続きましたが、このどん底から復活してきた時に考えました。またあの他人軸での評価、すなわち競争レースの中に戻っていくのか。そもそも競争の中で勝ち残ることが、わたくし米良の生まれた理由なのか、ということを自分自身に問いました。

そして、歴史、哲学、宗教、自己啓発、などの本を読み漁りました。その中で、自分に引っかかったのが「幸福学」や「ポジティブ心理学」でした。これらは、どうしたら幸せに生きられるか、という根源的な問いに対して、とてもプラクティカルな対処法を提供できる学問だと感じました。

そして、このタイミングで、私の興味は、ライフサイエンス(生命科学)から、幸せ(Well-being)に完全に移っていきました。

そして、改めて自分自身の人生を見つめなおして、これからは他人軸ではなく、自分軸で生きよう、そうだ「ありのまま」に生きよう、と考えがパチッと切り替わりました。

本当に、この人生の切り替わりは明確で、まるで自分のOSが書き換わったような感覚がありました(例えるなら、MACからWindowsに変わったくらいの感覚)。そしてこれを機に、「ありのまま」に生きよう(そして、自分がありのままに生きることによって、結果として世のためになるような活動をしよう)と強く心に決めました。

6. ありのまま期

先述したバーンアウト期を超えて、人生のスイッチが入れ替わったことで、自分の生き方は大きく変わりました。

まずは、仕事が変わりました。はい、自分軸で考えました。自分が何に興味を持ってるのか、と自分に問いました。そうしたら、人の成長、とか人の幸せ、に興味を持っていることに気がつきました。

面白いもので、そうやって自分自身に気がつくと、本当に奇跡の様なタイミングで出会いたい人や仕事が現れてきました。そして今、私は、人材開発の仕事に従事しながら、一方で、大学やコミュニティ活動を通して幸せの研究を行う、というとてもユニークなポジションとなっています。

たぶん、薬剤師&博士として、薬の研究開発に携わっていた方が他者からの評価は高かったかもしれません(多分その方が年収も高かったと思います笑)。しかし、自分の納得感、そして幸福感においては、今の生き方がとても気に入っています。

7. まとめ

これまでの経験を経て、いま強く大切だと思うことは、自分に起きることは全て何らかの意味を持つと信じること、自分に起きている全てのことを信じること、そして、本当の自分の声を聴いて、大切に丁寧に自分の人生を生ききること、です。

はい、いまになって、わたくし米良の想いはとてもシンプルなものです。

他人軸で生きるのは辞めよう。
自分の声を聴いて、自分軸で生きて。
そう「ありのまま」に生きよう。

ということです。

本当に人生には苦しいこともあります。超絶に未熟なわたくし米良ですが、これまで、おかげさまでいくつかの苦労をさせていただきましたので、それは理解しています。

自分の人生に起こっていること全てが、必然であり、そして奇跡のギフトであるということを、いま強く感じています。改めて奇跡に感謝したいと思います。

皆さま、長文にお付合いいただき感謝申し上げます。今後とも、株式会社WeLLBeINGをよろしくお願いいたします。

お幸せに!

株式会社WeLLBeING
代表取締役 米良克美